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2010/06/01
チュ-害シリーズ 鼠と疾病(2)サンフランシスコのペスト

1899年6月27日(火)に商船日本丸が香港より、ホノルルを経由してサンフランシスコ港に入港した。ホノルル入港時に2名のペスト患者(船員)とペスト菌保有鼠3匹が発見されていた。そのためサンフランシスコ港に於ては厳重な検疫が行われ、船底で日本人密航者11人が発見され、船員と共にエンセル島の検疫所に隔離された。その後密航者2名が行方不明になったが、後に日本丸の救命具をつけた2名の日本人の死体が発見された。死体はペスト菌をもっていた。

 この事件のあった9カ月後の1900年3月6日にサンフランシスコ市の中華街のグローブホテルより中国人男性の死体がみつかり、ペスト菌が発見された。すぐにサンフランシスコ市の保健委員会のウイリアムソン委員長は中華街12区画の交通速断を命令し、住民2万5千人の検疫を始めた。しかし当時はサンフランシスコ市は鉄道、船舶、商工業等の発展が目ざましく、市の実業界の指導者たちは、ペストによるそれらへの影響を心配して、政治的圧力をかけ、交通邁断をはじめ、中華街の検疫そ2日半で中止させた。サンフランシスコ市のフエラン市長並びに保健委員会はペスト撲滅のキャンペーンを実施すべく努力したが、カリフォルニア州のゲージ知事をはじめとする州保健委員会、商工業、新聞、住民、中国人、鉄道、船舶の利害関係者はペストの存在を否定した。ペストに対する市と州の意見の対立は1903年1月にゲージ知事の引退するまで続いた。

 新知事には医師のジョージパルディ氏が任命された。新知事は早速新しい州保健委員会を任命しペスト撲滅の活動を始めた。しかしこの第1次ペスト流行は1904年2月まで続いた。第1次ペスト流行による死者は122名に及んだ。しかし1906年4月48日にサンフランシスコ大地震が起こり、難民収容所や市営の馬小屋や、にわとり小屋が鼠天国となっていた。そしてサンフランシスコにおける第2次ペスト流行が起こり、他の州にも広がったが、今回は市も州も対応が早く、サンフランシスコ市では鼠とりの一大キャンペーンを展開し、そのための募金を行った。巨額の資金も集まり、鼠の捕獲に対して賞金をつけたりしたので、1909年には第2次ペスト流行も終結をみるに至った。

 その後人間のペストは減少したが、オレゴン州、アイダホ州、ネバダ州、ワイオミング州、コロラド州等で野生動物が次々とペストに感染していった。ドブネズミ、ハツカネズミ、ハタネズミ、ネコ、イヌ、ウサギ、アナウサギ、ハタリス、プレリードック、マーモット、・コヨーテ等がペストに感染し、しばしば人間にべストを発症させた。1950年頃、アメリカにおいては、殺虫剤のD.D.Tや殺鼠剤のプラトール、ワルファリンの発見により、またペスト菌に効く抗生物質(サルフナダイアジン、テトラサイクリン、ストマイ等)の出現によりペストもー時期征圧されたかに見えたが、ノミも鼠もペスト菌も薬剤に対して抵抗性をもち、ペストの死亡率は現在も非常に高いものとなっている。「ペストは今も生きている」(講談社発行 C.T.グレッグ著 和気朗訳より)

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